生田研究会卒業論文
ニューメディアの家庭への浸透
――ニューメディアはこれからどうなるのか?
慶應義塾大学法学部政治学科4-C
高柳良一
【目次】
今まで2年間、マスコミュニケーション全般の中でも、とりわけニューメディアについて勉強してきた。
しかし、今一度初心に還って考えてみると、その勉強の基本となる部分が未だにわかっていない様な気がする。それは「ニューメディアとは何か?」ということである。「今さらなにを」と、せせら笑われるかもしれないが、果たして自分と同様に研究会等を通じてニューメディアの勉強をしてきた者たちは、この質問にきちんと答えられるであろうか。おそらく皆この質問に対する答えを捜しているうちに、次から次へと新しい質問、疑問に追いたてられて、いつの間にかごまかして来てしまっているのではないだろうか。
ニューメディアをそのまま日本語に翻訳すれば「新媒体」という語になる。一対一というパーソナルメディアでもなく、一対多というマスメディアでもない「新媒体」ということであるが、これだけでは少しも「ニューメディアとは何か?」に答えたことにはならない。そこで就職試験用のアンチョコでニューメディアという語を調べてみたところ「CATV、キャプテン、文字多重放送等を指し…」で始まり、以下は用語の説明であった。また題名に「ニューメディア」という語が使われている本を手当たり次第読みあさってみたが、そのほとんどが「ニューメディアとは何か?」をメインテーマとして掲げてはいるものの、途中でお茶をにごしてしまっている。ただ一冊だけ「ニューメディアというのは和製英語であって、アメリカにあいてはCATVや衛星放送のことをエレクトロニック・メディアと呼ぶのである。日本では先端技術や、その周辺部にある新しいものを、何でもかんでも凡てひっくるめてニューメディアだとしている」というのがあった。まさにその通りであるが、しかしこの文はあくまでも「ニューメディアとは何か?」が説明できない理由の説明に過ぎない。
では、「ニューメディアとは何か?」が説明できない最大の理由は何であろうか。それは「身近なところに存在しない」からである。そんなことはない、東生駒市や三鷹市ではニューメディアの実験が行われているではないか!と叱られてしまいそうだが、大切なことはそれが「実験」であるという点である。ではキャプテンシステムはどうか、すでに実験段階を終えて昨年の秋からスタートしたではないか!という意見もあるが、そのサービスを受けているほとんどがIPと企業であるところから、まだまだ事実上「実験」の第二段階にとどまっているのではないだろうか。
昭和58年度の総理府の調査結果によれば、ニューメディアという言葉を聞いたことがある、知っていると答えた人の合計の割合は38パーセントであった。これは裏返して考えれば、ニューメディアという語は聞いたことがないという人が62パーセントもいるということになる。このことからも、ニューメディアがまだまだ身近なものにはなっていないことが憶測できる。それとはうらはらに、ここ数年のニューメディアブーム、ニューメディアフィーバーというのは何だったのだろうか。それは「ニューメディア」という言葉のフィーバーだったのである。「これからはニューメディアでなくては」という語が誰からともなく広がって、「ニューメディアとは何か?」を知らない人たちが、こぞってニューメディアにとびついたのである。必要にかられてとびついたのではないことが、この「見せかけのブーム」の終わり方の早さからもうかがえる。この「見せかけのブーム」を作り出し、またそれによって大もうけしたのは、出版社、広告代理店等のマスメディア産業だけであったという話がある。ニューメディアの台頭によって、その存在すら危ぶまれるというこれらの会社が、そのブームを逆手にとって大もうけしたというのは、あまりにも皮肉すぎることではないだろうか。
現在ニューメディアのハードは、いつでも家庭内に浸透できる、いわば「いざ鎌倉」の状態であるが、それがなぜ浸透していかないのか?浸透できない何かがあるのか?浸透されたくない何かがあるのか?それとも浸透される必要などないのか?浸透されたくとも浸透してもらえないのか?これらの問題にひとつひとつあたっていけば、ニューメディアが家庭になぜ浸透していないのか?をとく鍵になるであろうし、それはどうしたら浸透していくのか?につながっていくだろう。
この論文のテーマは「ニューメディアの家庭への浸透」であるが、その基本となるものは「ニューメディアとは何か?」であり、自分自身にとっての本当のテーマなのである。ニューメディアブームの誤りの一つは、「ニューメディアは何でもできる」という人々の期待でニューメディアのイメージをふとらせるだけふとらせてしまったことである。これ以上ふとれない、身動きがとれないといったところで、「ニューメディアは何もできないんだ」と人々は幻滅し、風船がしぼむ様に第一次のニューメディアブームは終わった。ここで改めてその贅肉をそぎ落としてみて、シェイプアップしたニューメディアは、一体どんな形をしているのか見てみようと思う。そして、出来ることならばニューメディアの可能性の一つ一つが、どんな風にこれからの社会で役に立つか、社会を変えることが出来るのか、自分のイメージの中でニューメディアを飛びまわらせてみようと思う。そして、第二次のニューメディアブームが、「ニューメディアとは何か?」に答えることが出来る人々によって引き起こされることを期待しながら、本題に入っていこうと思う。
1-1既存のソフトは「不良品」なのか
現在日本は全世帯の3分の1がホームビデオを所有している。それに対してレーザーディスク、VHD等と呼ばれているものの普及は、まだまだ一割程度に過ぎない。この両者の最大の違いは「録画できるか否か」である。ソフトを再生する能力や、ソフトのコストの点ではレーザーディスク、VHDの方がはるかに優れており、まだハード自体の価格も大差がないという事実を踏まえて考えてみると、いかにユーザーが「録画」に重点を置いているかということと同時に、ハードとしてのビデオの使われ方がおのずと見えてくる。つまり、ほとんどの人にとってビデオとはタイムシフトの道具にすぎないのであり、そのことはまた既存の空中波テレビのソフトに対する満足度が有料ビデオソフトのそれを上回っていることを意味するのである。
M-SAT(日本民間衛星放送株式会社)の申請にあたって「衛星放送はペイテレビであるべきだ」という議論があった。その根拠は「地上の放送では視ることの出来ない優れた番組を衛星放送では提供できる。そのためにはペイテレビが必要である」というものであった。なるほどという気持ちにさせられる人もいるだろうが、しかし地上の放送を広告付きでやっていて、しかも収益を上げている民放の人間の意見であるとなると、いささかその論理に矛盾を感じる。長年放送にたずさわってきた人間であるならばなおさら地上でいい番組を作る努力をするべきだ!と声を大にして言いたくなる。それでいて具体的なソフトについては何も述べていないことに対しても疑問を感じる。
現在NHKが、不自然な形ではあるがBS-2で衛星放送を行っている。「難視聴地域の解消」という第一の目的については達成されたと見て良いが、第二の目的の「衛星放送ならではの番組づくり」は全くが手つかずの状態である。もっとも「難視聴地域の解消」という目的は、放送開始と同時に完全消滅することがわかりきっていたために「目的」であるとは言えないかもしれない。しかしこれを省いてしまうと「一体衛星放送って何のためにあるの?」ということになってしまう。タイムシフト・リピートのためだという意見もあるが、それらが歓迎された時代はとっくの昔に終わってしまい、今やホームビデオがそれにとって代わっている。また高品位テレビヘの布石の第一歩だという考え方もあるが、現在のテレビの画質でもそれほど不満をもつものは多くないように思える。かえって高品位テレビにするために、精巧なカメラ、精巧なセット、そして受信用の端末に対する多額の支出が必至であるのであれば、その分「中味」にお金をかけて欲しいと思ってしまうのは私だけではないだろう。これはあまりにも退歩的な意見であり、今よりも未来が大切である!と言われてしまえば返す言葉もないが、これらの点についての意識調査を十分行わないで、時代の先取りに急ぎ過ぎたのではないだろうか?結局今のところはNHKのイメージアップと、受信料金値上げのもっともらしい理由が出来たに過ぎない。現存テレビの品質を向上させたもの=高品位テレビ、という枠組をはずしたところにもっと衛星放送の意義があるのではないだろうか?
テレビは30年という時間をかけて様々な形に変化してきたが、番組の作り方の基本は一方向的なものから脱け出していないのである。70年の歴史をもつラジオに対しても同様のことが言える。一方向的なものであるがゆえに、作り手側からすれば便利なことが多いが、逆に受け手の側からすればニーズに対する反応という点で不満があるのではないだろうか。
ニューメディアの出現はマスメディアの否定にはつながらないと思う。(少なからず打撃は与えるであろうが)その第一の理由は「日本だから」である。つまり日本人の様に全体がどこへ行くかということに、絶えず気配りをする中央集権志向はまず他の国には見当たらない。それは思想にしても、文化にしても、風俗にしてもである。つまり、集団として何をしているか知りたいという、ある種の「集団欲」が日本人の根底にある様に見受けられる。CATVの様な新しいメディアが日本の小さな地域社会に入ってくる過程で、逆に土地に従来からあったコミュニケーションが裏に潜り込んでしまったという視実がある。これも日本的であると言えば日本的である。ニューメディアは万能薬ではなく、「便利な道具」のひとつとして捉らえるべきものではないのだろうか。
かつて電話が出現したときに、普及がすすめばすすむ程人と人とが会って話をしなくなる、電話は社会の害悪となるであろう!という意見があった。しかし最近の調査によって電話をかける最大の目的は直接会う約束のためだということがわかった。その数は7割に近いのである。とすると、電話は人と会うために使われているのだということになり、メディアは理論でなく、実際の使用者によって規定されるものだということが、ここにも現れているように思える。
しかし、電話はあくまでも発信者のメディアである。相互に話が出来ても受信者が発信者にかかわらず受話器をとることを常に強制されている以上は受信者のメディアではありえないと言いきれる。今、CATVやキャプテンで双方向といっているのは、話が行き来できるから双方向であるというレベルにとどまっているのではないだろうか。ちなみにキャプテンにおけるデーター伝送速度は下り(キャプテンセンターから端末)が4800b/sに対し、上りが75b/s、実に64倍の差である。これでは後ろのひな段に人が座っているから視聴者参加番組だとか、客席に一般の人がいっぱいいるから公開番組だというテレビの常套手段と何ら変わりがない。そういう常識の壁の様なものをぶちぬいたところの発想こそが双方向につながっていくのだと思える。
東生駒のHi-OVISで最も困ったことは、視聴者が局に送り返してくる意見に建て前が多すぎることだったそうである。これもまた双方向ゆえの問題点であるが、それ以前に「必要にせまられた双方向ではない」ところからスタートしたためであるとも言えるのではないだろうか。これは何もCATVに限ったことでなく、日本におけるニューメディアそのものがスタートから「必要にせまられた」ためのものではないことを忘れてしまってはいないだろうか。メディアは街にあふれている。そして日本人の9割が今の生活に満足している。この様な状態でニューメディアを与えられても十分使いこなせないどころか使う気にもなれないのではないだろうか。ましてや生活の一部として確固たる地位を得たりすることが出来るのだろうか。その上で商売として成り立たせようとするのは、まさに気の遠くなるような話である。ある推計によるとニューメディア市場は1995年には23〜30兆円になり、乗用者市場の2倍になるとされているが、以上のことから考えてみるとますます疑わしくなってくる一方である。
ニューメディアは万能ではないということは前に述べたが、違うコミュニケーションルートをつくるための手段と割り切ってみるのはどうだろうか。そしてある種の情報を含めた違うコミュニケーションルートが出来ればおのずと建て前のコミュニケーションルートではない、本音の部分が活性化され、補われていくのではないだろうか。会話というルートがあって、活字というルートがあって、そういうものに映像というものがさらに積み重なっていく。それは人間がお互いにお互いの意思を伝え、確認し、理解するために自由に使えばいいのであって、それを立体的に使いこなせる環境がこれから徐々に出来上がってくる。こう考えていけばニューメディアの在り方に一つ希望が見えてくるようである。最終的にソフトは、やはり人間が人間に何を伝えるか、あるいは何を求めたいかというところに戻ってくるのではないだろうか。それはそもそも双方向通信の原点が基本的にシークレットなものであったというところからも伺い知れる。
日本人の心理の中には現実を超越したデラックスなものを求めつつも、常に全体の中の一員でありたいという相反する心理が存在している。海外旅行を例にとれば、海外での滞在費用が他の国の旅行者の約3倍近いというのが前者であり、常にガイドを先頭にゾロゾロ歩きまわるというのが後者である。放送を通じて日本人は共同体的な地球上のある空間にいるんだということを、確認して安心するのである。それとともに日常をどう非日常化していくかということが、文化的にこれからかなり大きな役割を背負ってくるであろう。日本人に限らず、人間は生きていく上である種の変化を求める。日常がある種の定着をして生活レベルが安定すればするほど何とか日常を脱出したいという欲求が出てくるのではないだろうか。そういった意味で、ニューメディアの出現は時宜を得ているのかもしれない。本当に通信がパーソナルになるのは、いつでも、どこでも、好きなように、好きな人しゃべれる時ではないだろうか。
ニューメディアとは何かから、ニューメディアそのものが論議の焦点になってくるというのは、いかにエンドユーザーから金をとるかということを、やっとテレビが考えなくてはならなくなったことではないかと思う。したがって今までのスポンサーのためのソフトが、本当の「商品」としてエンドユーザーに問われる様になってくるであろう。今のところ確実に「商品」になりうるとされているのは映画だけである。日本人がソフトにお金を払う習慣をもっている唯一の存在だからである。最も古い映像メディアが最も新しい映像メディアを救うというのはたいへん滑稽であるが、しかしいつまでもそこにたよってはいられない。そこから新しいメディアの何かを作り出していくのである。ソフトの担い手も同様である。やはりスタート直後はそういった映像のスペシャリストたちがある部分を担っていかなければならないだろう。そのなかから新感覚の表現というのが当然出て来ざるをえない。たえず変化するのが人間社会であるが、その中心になるのはいつの時代でも若者である。若者の発想がノウハウを持ったスペシャリストたちと結びついた時こそが、ニューメディアソフトと呼べるソフトが生まれる時であろう。
ここまでを振り返ってみてニューメディアソフトの柱となるものが3つあると思われる。1つめはポリシーを持つことである。ニューメディアソフトであるからこそ、ニューメディアソフトでなくてはという確固たる信念を持ち続けることが大切であると思う。2つめは垣根を越えることである。ニューメディアの最大のテーマは越境ということにある。そのためには垣根を跳び越えるフットワークを身につけたり、場合によっては垣根を破壊するパワーを身につけた強いものになることが必要になってくるだろう。越境はまたソフトだけでなく、ビジネスにおいてもニューメディアの最大の武器になりうるだろう。3つめは既存メディアのまねをしないことである。例えばCATVにおいて番組の作り方にしても編成にしても流通構造にしても、テレビを手本にしたらそれだけでニューメディアとしての魅力が失われてしまうように思える。
やはりニューメディア時代というものを一種の文明史的に捉らえないと、テクノロジーとハードにふりまわされて終わってしまうのではないだろうか。あらゆるものが本質で捉らえられずに、フィーリングで捉らえられる時代になってきた。今、ニューメディアも既存メディアがアナロジカルにコツコツと積み立ててきたものを一回感覚的に打ち壊して全体を見直してみたらどうだろう。こういう文明史の流れの中の視点に立ってみることが出来なければ、永遠にアナログの上にアナログを築き続.けることとなるのは明らかである。二次元の活字メディアに奥行きを持たせたものが三次元の映像メディアであり、そこに何か新しい画期的な仕組みが積み重なったものがニューメディアに成り得るのである。こうした流れでニューメディアを捉らえてみるのも大切なことではないだろうか。
映像メディアは活字メディアの上に成り立っているものであり、映像メディア時代の中でも活字メディアは生きながらえている。しかし、これからのニューメディア時代は映像メディアの上に成り立つものではいけない。活字が来てその上に映像が来てその上にニューメディアという一本の線で捉らえず、二次元、三次元を超越した四次元の発想で捉らえることがニューメディアには必要なのではないだろうか。
CATVがソフトを流してそれを見た人がお金を払うという形で果たして企業として成り立つのであろうか。
日本初の本格的な都市型、大規模CATVとして今年からサービスを開始した東京、町田の「インターナショナル・ケーブル・ネットワーク」(ICN)は開局五年で全市の約40%に当たる4万世帯加入を目標に、放送スタジオ・ケーブル等の建設費は約40億円を見込んでいる。契約家庭には、加入料5万円と月額2400円で、地元ニュース等の自主製作テレビ番組4チャンネルを選べる有料FM音楽サービスがある。しかし、余暇開発センターが500人余の往民を対象にした調査の申間報告によると、加入料金が有料なら契約しないというのが半数、2万円以下なら契約するというのが3割、5万円を越えてもいいというのは1%未満だった。月額利用料も、100円〜1000円を希望するものが4分の1で最も多く、5000円を越えると1.5%を割るなど、大規模CATV「一番手」を迎え入れる茶の間の反応は相当にきびしい様である。以上の数字からICNが独自で営業をするとして、再送信サービスだけが40%入り、残り30%が有料映画チャンネル、さらに30%はFMまで聞いてくれて、なおかつ加入者からの金がたいへんうまく回収できたとしても年間20億円の収入しか見込めないという予測結栗が出されている、CATVがプロパーで稼げる金はたかが知れているわけで、結果的にはメジャー企業の文化戦略の様な形で使われることもありうるであろう。
CATVの設置許可申講は実に様々なところから出されている。これまでのような「地域土着型」に比べて、双方向、多チャンネル指向の「都市型」の申請が多くなっていることは明らかだが、多チャンネル構想の中に必ずといっていい程ローカル・オリジーネーションのコミュニティチャンネルが存在することに気がついた。しかし、そのコミュニティチャンネル用のソフトに対して常時制作体制を整えることは不可能ではないだろうか。そうなると、あえてソフトウェアと呼べる様な情報を作ったり加工したものを放送せずに、生活そのものをそのまま出してしまう様な格好にいくと思えるし、それこそがコミュニティチャンネルであるとも言えるのではないだろうか。
そしてまた、多チャンネル化と叫ばれていても、それを埋めるだけの情報があるのだろうか。アメリカではチャンネルを埋めるために、かつて道路脇にカメラを据えつけて、延々流れる車を映したことがあつたそうである。これは「いつか大事故が起こるだろう」という発想の下に始めたらしいが、日本ではこれでは成り立たないだろう。日本人の意識の下にある無意識では、いつも「テレビというものは、きちんとしたものでなくてはならない」と要求し続けているのである。サングラスをかけてテレビに出たり、帽子をかぶったままテレビに出たりすると「けしからん!」と抗議の電話や手紙が殺到するのも、日本ならではの現象であろう。やはりブラウン管に映し出される「テレビ」にはNHKや民放というイメージが確固としてあるために「低予算とはいえテレビではないか!」「ローカルとはいえテレビだろ!」という諭理が生まれてしまうのである。本当はそうした既存メディアこそが変わるべきものなのである。
チャンネルの中には当然きちんとしたものもある。しかし全体の流れとして、24時間総てをきちんと埋めていこうとすると、「NHK」ですら音をあげてしまうだろう。好みが色々出てくれば、ソフトは多品種少量生産になり、それに従って単価も高いものになってしまう。傾向はいろいろ見えるが、しかし視聴率だけを見てもわからない。なぜならば見てしまう人は面白くなくとも全部見てしまうからである。
同軸にしても光ファイバーにしても、現在の技術をもってすれば何十チャンネルもとることが出来るし、またそういう方向で多くの話は進められている。しかしそれを埋め尽くしていくソフト、ソフトのもとになる情報、事件等の心理的刺激剤が、今一つ見えて来ない。また多チャンネル化に対して友好的であるか、拒否的であるかといったユーザーの反応も見えない状態である。そうした事柄を踏まえた上でとりあえずスタートしようとするのは、かまわないと思うが、極端なコスト高がユーザーに跳ね返って来ることはごめんである。
現在のテレビの主たる視聴者である主婦、子供がそのままCATVのユーザーとして引き継がれるであろうか。テレビ番組を「これを見ないと皆の話について行けない」という様な、仲間内の一種の強制感覚で見ていることがある。また、友だち皆が聞いているラジオ番組だからこそ、ハガキを読まれたいという様な感覚も誰しもが持っているものだと思える。これらの感覚はメディアがマスであるがゆえのものであって、各々見るものが個別化して潜ってしまったら、30も40もチャンネルが存在した場合には二度と表面化しなくなることだろう。
現在日本全国、どこであろうとそれなりの器材があれば、放送番組の供給を受けられる状況にある。しかし、いわゆる持定の地域の市民に役立つ生活情報のような身近な番組は、良くても一日に1、2時間であり、それも全県的情報どまりであって、一市町村単位のものではない。日本人は総理大臣が毎日何をしているのか知らされていても、自分が直接選挙した議員がどこへ行き、何を発言したか等はとても知らされていないし、県会議員、市町村会議員となると知ろうともしなくなる。これは今のマスコミュニケーションのシステムがあまりに巨大になりすぎたために起きた情報のウィークポイントである。小きな情報では商売になりにくいので、常に大きな情報だけで商売をするという視聴率万能主義が生み出した結果なのである。
こうしたマスコミの有り方に疑問を持って(商売的関心の方向が違うだけという見方も出来るが…)登場したのがニューメディアであるが、それを支えていく人間は商才よりも、まず地域に根差した映像感覚を持ちあわせた人間集団でなくてはならないだろう。地域の情報は地域のCATVでなければ出来ないし、地域住民の知りたいことはマスコミではペイ出来ないのである。いわゆる映像のプロの人たちにニューメディアのソフトを任せておくには、あまりにもこのメディアの映像の絶対必要供給量が多すぎると考えられる。
確かに、今、日本全国はニューメディア騒ぎに掻き回されている。その騒ぎの中で、アメリカのニューメディアの実績をいかに日本的に応用していこうか、戦略を進めようかと企業は躍起になっており、それに乗り遅れまいとする人やニューメディアとは何たるかを理解出来ない人たちも、つられて右往左往している状況である。
遅かれ早かれニューメディア時代は間違いなく到来するだろう。アメリカとほぼ同様の状況になっていくと予測する人もいるが、もう一方では日本に入ってきても迎え入れられないと見ている人もいる。しかし、一市民がジタバタと考えてみても始まらない日本の社会の仕組みの中ではあるが、既存メディアをも飲み込もうとするニューメディアは巨大すぎるゆえに、そこいらじゅうに入り込む瞭間がある様な気がする。ニューメディアとテレビとは懸け離すことは出来ない。身近なテレビがケーブルや衛星によって、これほど多くの情報を送ることが出来るものになるとは、誰もが思っていなかったことであろう。そういった点においては、INS構想キャンペーンは意味のあるものであったと言えよう。しかし、ニューメディアの多くの情報の担い手が我々であることまでは知らされてはいない。我々にゆだねられているために、我々ひとりひとりが十分利用でき、参加していけるメディアであることに、皆なが早く気がつかなくてはならない。ニューメディアと一市民とが本当に関わる接点でこそ、新しいソフト、無限のソフトが生まれてくる。そう言いきることが出来るだろう。
都市型、多チャンネルCATVは、こうした「地域放送」型から、いわば「通信」型を志向している部分もある。放送型コミュニティチャンネルは、そうした構想の中でどれだけのウエイトを占めていくかは定かではない。けれども、エスタブリッシュなメディアやネットワーク社会の志向性だけで、どこの住民が本当にケーブルを必要としているのだろうか。もちろん、だからコミュニティ情報だけを求めているわけではない。現在営業をしているCATVも、自主放送チャンネルで行っている放送そのものが、コミュニティ情報に徹底していくだけでは、地域住民は決して見てくれないことを良く知っている。また、経済的にそう見合うものではないことも心得ているのだ。しかし、その部分を生かしながらも、他方でもう一つのソフトを追求し始めることであろう。都市型であっても、CATVが入っていくのは地域社会の一定のエリアの各家庭からなのである。ニューメディアの担い手たちは今、地域社会という一定の枠組みを対象にしながら、ひとつのコミュニティチャンネルで、個別の住民ひとりひとりに的を絞り込んだ、セグメントされたソフトを考え始めなくてはならない。「地域」概念で抑え、共通項で括るソフトを一方で追求しながら、そこを越え、ある対象に語りかける方法を見つけることに意義があるのではないだろうか。個と個を結んでこそ、「チャンネル」であると言えよう。
つい先日から民放(NTV)でも文字放送が始まった。ブラウン管を使う文字情報に対して「これなら使うよ。別料金をとられるわけでもないし、ニューメディアっていっても字幕放送なら馴染みがあるから。まあ音声多重放送の次には画面多重放送が始まるような気がしてたから抵抗はなかったね」という意見もあるし、「ニューメディア、ニューメディアっていう位だから、もう文字はいいよ」と考えている人もいる。文字放送は「多重」放送であることに最大の特徴がある。テレビの電波の一部を使って文字信号を送り、受信側でその文字信号を分離して再現する方法だが、送り手側にしてみれば既存の設備に多重のための装置を加えるだけで済み、受け手側もテレビ受像機に文字放送用のデコーダーをつけるだけで済む。ニューメディアと呼ばれるものの中で、最も経済的で、最も簡便性に優れているものであろう。
テレビは速報性に優れたメディアである。時間の流れと伴に「働く」情報を送ることの出来るテレビに依存することで、文字放送は速報性という武器を持つことが出来た。文字放送はテレビに多重するとはいっても、多項目の番組を同時に送り出すことが可能なメディアであり、好きな時に好きな番組を選んで見ることも出来る。しかし既存の電波に多重することから来るハンディキャップもある。情報を流すパイプが細いため、大量の情報を送るのは不得手であり、整理され要約された情報に限られてしまうことである。こうして考えてみると、文字放送はさも最も身近なニューメディアである様だが、最大の欠点は制作段階の途中にある「字幕の制作」なのである。NHK、朝のテレビ小説「おしん」は流行語をも生み出すブームを作り上げたが、あの一回15分の番組に字幕を入れるのにひとりだと15時間、二人でも8時間かかったそうであり、平均12〜14時間かかっているのが現状である。
情報伝達のパイプが細いことは、大量の情報を送れないという欠点であるが、一方では精選された価値の高い情報のみを送り、受け手側は簡単な手順で、その情報を手に入れることが出来る利点にもなる。他のメディアとの共存の中で、文字放送は一種のインデックスメディアとしての役割を持つのではないだろうか。その時、要約作業、編集作業という仕事は、ますます重い意味を持って来るだろう。社会のニーズに応じ、大量の情報から何を選択し、どのように整理して送り込むか、直接家庭の茶の間に結びつくメディアだけに、大きな影響力を持つことになろう。字幕番組も同様である。マスコミの少数者サービスについて、社会的要請はこれからどんどん高くなっていくだろう。単にドラマやほかの娯楽番組に留まらず、ニュースや教育、教養番組にも字幕が欲しいという声は多い。こうした期待に応えるためには、ソフトの面でも解決しなくてはならない問題が山積みされている。聴力障害者等の少数者に対するサービスをめぐっても放送局の社会的責任はますます重くなってくるだろう。
こうした社会的ニ一ズを象徴的に示す出来事として、先年アメリカで起こされた一つの訴訟がある。総ての放送局は公共の利益に資することを条件に免許を与えられているのだから、聴力障害者に対しても十分なサービスを行うべきである、という論拠から総ての番組にオープンキャプション(総ての視聴者が見ることになるテロップ等による字幕)をつけることを求めた訴訟であった。裁判の結果は原告側の要求を全面的に受け入れたものではなかったものの、公共の利益の中には当然、聴力障害者を差別しないことが含まれるという判断が下された。この裁判からも、現代人の最大のメディアはテレビであり、そのメディアから障害者が疎外されてはならないとする考え方が一般化しつつあることがわかる。民間主導型のアメリカに、字幕制作のための公的な機関が生まれ強力にノウハウの開発を進めていることや、NCI(字幕制作共同機構)という機関が聴力障害者向けだけではなく、アメリカにおける少数言語の字幕付けについても検討を始めたこと等は貴重な参考になるであろう。
キャプテンの情報提供(IP)協会に加盟しているのは現在348社であるが、銀行、保険、証券を含めた「金融、証券」が全体の4分の1を占めている。これに対してキャプテン開始直後に熱心であったマスコミはめっきり数が減っており、メーカーもあまり興味がない様に見受けられる。このことからキャプテンの本当の主役は商品の流通を担う末端の会社であることが'わかる。やはり、本当の意味での生活感覚をつかむのには末端にいなくては難しいのであろう。ビデオテックスにしても文字放送にしても、文化的匂いのあるものはあまり好まれずに、逆に数字で表現できる、数字に還元できる様な無機質な情報が向いている様である。新聞のうちでも、とりわけ経済新聞等は、数字の情報を部分的に扱うけれども、大多数は数字に何らかの加工をしてメディアに載せられているのが現状である。文字放送の相当な部分は、何も手を加えられていない生の数字を見やすい形で提示することに終始してしまう様にも思える。
ではなぜ情緒を伴ったものや、アナログ的なものは馴染まないのであろうか。それは文化的意識を刺激するものが家の外にしか存在しないためであろう。ニューメディア等に頼らなくても、それはじかにショッピングで行っているわけである。店員にゴマをすってもらったり、世間話をしたり、愚痴をこぼしたりというのもショッピングの目的にはいるのであって、決して物だけ買えれば良いというものではないのである。ショッピングの満足感はメディアで得ようとしても得られるものではなく、主婦における最大快感取得構造であると言い切っても大げさではないであろう。いくら「実物」に近い情報であっても、それは「実物」そのものではないのだ、ということをユーザーに認識させていかなくては、ビデオテックス自体が収入を得ることが可能になっても、次のステップに進むことが出来なくなるのではないだろうか。
また、これは文字放送とビデオテックスの双方に通じる問題であるが、わざわざテレビの画面を拝借して送らなければいけない文字情報は本当にあるのだろうかという疑問である。ニュース、天気予報、レース結果等は電話で既に行っているサービスであるし、アパート、マンションの情報等は駅の売店、本屋等でズバリそのままの名前で売られている。いずれにしても「わざわざキャプテンを導入しても…」と思わせるものばかりである。ひとつには思いつくアイディアが少な過ぎるのではないだろうか。需要があって供給されるべきものが、供給してから需要を求めるというチグハグなスタートをしたためだから、仕方がないと言えば仕方がないのであろう。ではソフトが思いつかないのならば、メーカーや流通業者に「貸す」様なことをしてみるのはどうだろうか。プロモーションビデオばりのCMを、四六時中流し続けるというのも(最も現在の技術ではチラシ止まりであるが)魅力的なことではないだろうか。しかし良く良く考えてみればテレビ番組を見ている時には文字放送は見られないし、電話を使いたい時にはキャプテンシステムは使えない。今でこそ名ばかりの「ニューメディア」とせせら笑われてはいるものの、既存メディアと同じ条件が備わった場合、タイムシフトをひけない放送はその瞬間負けてしまうだろう。その点はビデオテックスもキャプテンも同じであるし、ブラウン管を使う時間はテレビだけで一日7時間40分、日曜日は8時間も占領しているという事実も「ニューメディア」をおびやかす要因であろう。
結論から言えばキャプテンが家庭に入り込むのは大変困難なことである。欧米諸国の場合には文字放送が先にスタートして、そこで十分に送り伝えることが出来ない専門的な情報を、応答の形でとれないものか、というところからビデオテックスに進んだのであるが、日本の場合は郵政省で仕事をしたい人間がいて「キャプテンだ、キャプテンだ」というふうに言ったから「キャプテンは何でも出来るメディアである」という宣伝が行き渡ってしまったのである。キャプテンの一番弱いところは、自分の欲しい情報がキャプテンシステムの中にあるかどうかが、前もってわからないということではないだろうか。それを質間して、その質問に答えてくれるソフトがないものだから、結局キャプテンの手引き書にあるやり方に従ってひとつひとつキーパットで探すことになってしまうのであるが、結局ないということがわかっても、それがわかるまでずっと電話はつながっているのだから、目指す情報を何一つ得られなくても3分30円の単位でお金を取られてしまうことになる。もっともNTTにとっては、どちらでも良いことかも知れない。
もちろんキャプテンの使い方にも決まりがあって、ある種の情報に到達できるための手順はこうである、それが自分の家で良く使う情報である、ということがわかっていればおのずと覚えてしまうだろう。我々が電話で天気予報や時報、を聞くのと同じ様な使い方が出来ないわけではないが、新しい情報を絶えずキャプテンから供給されて、そこに求めようと考える人は果たしてどの程度存在するのであろうか。ビジネスユースにまで広げて考えてみても、うまくいくかどうか難しいところである。情報の更新もリアルタイムで処理出来ない状況である現在、狭くかつ深いものしかキャプテンの本当の使い道はないと言えるだろう。
INSの図式というものは、そもそも端末装置と広帯のネットワークのインテリジェント化で何でも出来てしまうというものであるが、ソフトについて考えるには、伝送路とは何か、コモンキャリアとは何か、NTTの存在はどういうものなのかから考えてみないと単純に結論を出すことは出来ないだろう。かつての電々公社が、なぜああも急いでキャプテンシステムを稼動させ始めたのか、という問題には、このINS構想と大きな関連があるのではないだろうか。つまり、民営化されることによって様々な会社に分割されてしまっても、INS構想が現実化し、本格的な高度情報通信時代が到来する時までには何とか光ファイバーで全国の幹線網を完成させて、電々公社の城を作ってしまおうという経営戦略に大きな影響を与えられたのであろう。それが郵政省のコンピュートピアだとか、テレトピア構想だとか、通産省のニューメディアコミュニティだとか全部が結びついてしまって、キャプテンにCATV等を全部含めて、地方に拠点を作るという、かつての「日本列島改造論」をほうふつさせる様な考え方につながっていったのである。幹線網が出来たあかつきには、こんなことも出来る、あんなことも夢でなくなるといった話も数多く耳にするし、またそれに群がっているIPも数多く存在することも事実である。しかし、どこまで本気でやろうとしているのか、自由なオペレーションがどこまで可能かという点がどうもうやむやにされている様な気がする。今でもNTTはソフトを考えなくてはいけない義務はなく、悪く言えばわからないときには知らん顔をしていれば済むのである。データーバンクは持たないけれどもデーターバンクをつなぐことはします、用語の処理はしますが用語の生産とか編集に乗り出す意向はありません、という様な態度を取り続けて来た。しかし、キャプテンと取り組んで丸一年が過ぎてしまい、二年目に突入しようとしている現在、その態度がゆらいできていることもまた事実なのである。とりわけ通信の分野と処理の分野がかなり近づいてきて、境目がはっきりしないようになってきている。INSだけでなくケーブルでも試みられているホームセキュリティの問題でも、現在の電話に付属装置を付けるだけで緊急時には外出先に自動的に電話をかけてくれる器械があるのに、そっちを押し進めずに何としても光ファイバーを全国に敷きつめようとする意味がどこにあるのだろうか。日本全国、すみからすみまで全所帯がケーブルでつながってしまった後で、エリアを越えてかつクローズド・ユーザーへのダイレクトメール的な商売を成り立たせるには、本当にアイディアと営業を第一に考えなくては勝負にならないだろう。いずれにしても三鷹だけの狭いエリアで考えていてもわからなかった、見えなかった価値が、全国的なINS化によって見えてくることを期侍したい。
ジョージ・オーウェルの「1984年」について書かれたものの中で、ニューメディアのレベルには4つの段階があるとされていた。第一段階=技術万能の段階、第二段階=役に立つソフトは何か、第三段階=市場で商売として成り立つか、第四段階=社会の中での意味づけ、といったところであるが、今日の日本ではようやく第一段階を脱けて第二段階に到達したところであり、それに対してアメリカでは第三段階を脱けて第四段階のレベルで議論されているのだそうである。つまりジョージ・オーウェルの「1984年」は第四段階の評価、考え方を示すもののひとつであるということが結論であった。ズバリ言い表されているとは思えないが、ただソフトの問題は第四段階を念頭において議論していかなくてはならないだろうという気はする。
冗談の様な話ではあるが、ニューメディアで最近一番ヒットしているのはカラオケであるという話がある。新キャプテン方式の発表会が1983年の11月下旬にニューオータニで行われた時に、電々公社の職員がメロディ機能の解説において「夜はキャプテンでカラオケの練習をしよう!が合言葉です。」と言ったという話があるが、笑い話として受け止められる反面、電々公社はまじめにカラオケブームにニューメディアを便乗させようとしていることがわかる。またキャプテンと趣味、娯楽のマッチングの方法として「離れた人と囲碁、将棋の対局が出来る」という話もあるのだが、あまりにも単純過ぎる発想でかつてのハム将棋や電報囲碁等の焼き直しに過ぎないのではないかという気がする。
そして教育とニューメディアの問題であるが、質問に対する解答が常にスピーディーでなおかつ的を射ている様な対話型のニューメディアが現れて来ない限り、発展途上国以外では対面性の教育に勝ることは出来ないだろう。大手マンモス進学塾が衰退していき、少数精鋭主義の塾にとって代わられたことにもそれを見ることが出来る。カルチャーセンターにしても主婦の井戸端化している現状を見ると、居ながらうんぬんよりも対面性でなくては駄目だという気がする。
話をまとめるにあたって、ニューメディアソフトを考える上で一番残念なことは、現代日本人の感性や遊びの精神や柔軟さみたいなものが、仕事イズム一辺倒の中で見失われていることである。テレビにしても、おそらく30数年前に一種の強迫観念のようなものにかられて始まったのに違いないのだから、どんなに努力しても結局なるようになるのだと思ってもっと気楽に考えて欲しいと思.う。
今、心理的にはまったくテレビは軽んじられている。桐の箱に入れられて崇められていた時代が嘘の様である。それでも見続けられているのだから、テレビの底力というものはやはり驚くべきものなのである。まさに「たかがテレビされどテレビ」である。しかしそこまで来ていればそう簡単に消えることはないだろうから、CATVの側から何らかの自己主張が顕れて来るかもしれない。ただ致命的なのは運営に金がかかりすぎることと、連日ソフトを作り続けなくてはならないことであって、その上に「金を取るんだから既存のVTRとは比べものにならないだろう」という人々の期待が加わることである。
スタートの段階は、何にしろ今あるものの真似から出発せざるを得ないだろう。本当に良いソフトと受け手が良いと思うソフトとは必ずしも一致しないからである。もうひとつ、飢餓マーケットを作ることもニューメディア浸透の有力な方法となるだろう。
ある意味では、情報を隠す力を持った人間だけがソフトを握ることがありえる。そうなるとニューメディア時代が到来した時には、ますます情報は貴重なものとなってしまい、誰もが得られるものではなくなってしまうという、今までとは全く反対の結論に到達してしまうことになる。ニューメディアがかつての自動車の様にステイタスシンボル化し、変質していく可能性もないとは言えないだろう。先程の話に戻ってしまうことになるが、カラオケがヒットした一番の理由は参加型であるというところであって、そこから導き出されるのは、やはり「人間が一番興味を持っているのは人間である」ということではないだろうか。
かつて「メディア戦国時代をどう生きるか」というシンポジウムが開かれた時に講師の先生方は、皆人の話を聞きに来るつもりで参加したのであって、コレだという知恵があれば何もこんなところには来ないと述べていたそうである。生まれてない子の器量を考えたってしょうがないという言葉があるが、まさにその通りであって、本当の意味でのニューメディアはまだ生まれていないのだから、一生懸命考えてもしょうがないのである。やはり、ケ・セラ・セラ(なるようになる)が一番理想なのであろう。
物流に限って言えば、今までは店頭レベルの存在でしかなかった。ところがこれが家庭まで行ったときの物流の対応というのは全く新しい世界であり、これこそがニューメディアの世界であると言えるだろう。家庭まで到達する様な新しい物流の体系というのは、従来のものを高度化して組み変えるということではなくて、全く新しく作る世界になるのだ。
新聞がファクシミリになり、茶の間にダイレクトに送られる状況が近い将来現実のものとなるかもしれない。そうすると、おのずと新聞配達という機能はなくなってしまうことになる。また電子郵便のサービスがもっとパーソナルなものになってしまえば、郵便配達という機能はなくなってしまうだろう。こういった情報を物流という形で届ける諸々の機能というのがなくなっていく過程
では、社会的には相当の摩擦があるだろうと予想される。ただそういうことをやっていた機能が、もう一度全く別の役割で見直されることもあるのではないだろうか。家庭に物を届けるというのは、逆にニューメディアの時代であるからこそ必要になるのではないだろうか。
物を誰かが、どこかに、きちんと届けるという労働集約的な部分は、今後どんなにニューメディアの波が押し寄せても、決して消えてしまうことはないだろう。だからこそ、今日の近代的な運送システムというのは、むしろ新しい物流の萌芽というニュアンスで受け止めている。スーパーやコンビニエンスが、どんどん普及していくにつれて、新しいものに支えられた古いものが、もう一度蘇ることもありうるのではないだろうか。新しいシステムの出現は当然古いシステムを排除することになり、今までのシステムは自動的に廃れていくだろうというのが、今まで誰しもが持っていたイメージであったはずである。しかし、それに対してニューメディアに支えられて、家庭配達サービス業という相当大きなビジネスがいつか出て来るのではないか、そして新聞とか郵便とか、ニューメデイアによって潰されようとしている部分が、逆にそこを受け持つ様になるのではないかと思えるのである。
ニューメディアは、今のままの形では決して既存メディアに成り代わることは出来ないであろう。そこには合理化、電子化、スピード化、簡略化こそがニューメディアの役目であるという考えが、確固として存在しているからである。役人であれ、企業であれ、メディアの送り手側の人間は、皆こういった考えに取り憑かれ過ぎていて、何か大切なことを忘れているのではないだろうか。
古いものが新しいものに代わっていく時に、どうしても引き継げないものは「味」である。列車の旅が新幹線になって失われたのも「味」であり、ヒノキの風呂がプラスチックになって失われたのも「味」である。本物に最も近いものよりも、本物の方が絶対的に支持される理由は、本物の持つ「味」がコピーには出せないからなのである。
ニューメディアは自分が取りこぼしてしまった既存メディアの「味」を集めることが出来る様になった時に、初めてあらゆる人が納得出来るものとなるであろう。そのために進歩する部分よりもむしろ退歩する部分も出て来るかもしれない。しかし、そのことによって「味」が出て来るのならば、必ず大衆に受け入れられるであろう。ニューメディアの家庭への浸透には、目に見えない「味」が大きなカギになると言えよう。